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昼のラッキーの

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先生のアトリエへ続く薄暗い廊下を歩きながら、私はふと自分の右手を裏返してみた。
カバー無しで木炭を握っていた3本の指と、画用紙に接する小指から下が真っ黒だった。
濃紺の制服のスカートで、炭のPretty Renew 黑店汚れをごしごし擦る。
僅かに取れたところでスケッチブックを抱え直し、廊下を進んだ。

先生の住居兼アトリエは、私たち生徒のデッサン室と、バラックのような通路で繋がっている。
もともと別棟だったものを、先生自身が廃材を使って繋げたのだそうだ。
雨の日も、生徒や作品が濡れないように。

突き当りにぼんやり浮かび上がった、真鍮のドアノブにそっと手を伸ばし、引いた。
何の音も、何の抵抗もなく、他者を招き入れてくれる古い木製の扉。
先生の部屋は廊下と同じくらいにいつも薄暗く、ブロンズ粘土と木の匂いがした。

先生はいつものように部屋の隅に立って、粘土を捏ねていた。
あまり日に当たらずに過ごした白い繊細な指が、人間にはありえない、別の色に染まっているのを見ると、なぜかドキリとする。
私に気がつくと先生は、すぐ側のバケツの水で手を洗い、30になったばかりの精悍な顔をこちらに向けた。
「仁科さん、描けた? 見せてみて」
静かで深いその声は、3時間石膏デッサンに励んだ私にとって、何よりのご褒美だった。

私が手渡したブルータスのデッサンを、先生は立ったまま手に取り、じっと見つめる。
苦手な時間だ。
私自身の骨を透かして見られているような気恥ずかしさに、いつも落ち着かなくなる。

美大受験生の為のデッサン教室を開いている先生の元へ、私が通うようになったのは、半年ほど前だ。
私は高校2年生だが、遅すぎる方らしい。
先生は塑像作家であり、美術誌に何度も取りあげられている現代芸術家だそうだが、私は知名度のことは、よく分からない。

私に分かるのは、先生の目がとても優しくて、手がとても綺麗で、先生の作品がどれも魅力的だということだ。

アトリエの隅には、個展から戻ってきた大小さまざまな塑像たちが無造作に置かれている。
粘土を捏ね、指先の感覚だけで作り上げていく塑像は、彫刻よりも繊細で、生々しい。
ブロンズ色に輝く男も女も、みんなどこか色気を含み、先生自身に似てる気がした。

「構図がとても良くなった。溜まりの加減もいい。でも細部の陰影ばかりに拘わり過ぎないようにね。彼そのもののバランスが崩れてしまう」
そんな先生の声を聞きながら、私はワザと、ほんの少しよそ見をしてみた。
光の当たらない部屋の隅に、ずっと放置されたままの先生の作品がある。
以前から私は「それ」が気になって仕方がない。
「それ」はそっと、忘れられたかのように、そこにあるのだ。

不思議なことに、心を掴まれないはずのない、その異彩を放つ作品に、私以外の生徒はまるで反応を示さない。
こんなに美しいのに。 みんな馬鹿なのだ。

「仁科さん」
「はい」
「もう9時になる。残ってるのは君だけだよ。親御さん心配なさるから、帰りなさい」
「平気です」

だいたい気に入らない。
私がその作品に注意を向けると、先生はいつも困ったように何気なく気を反らせようとする。
それなら納戸の奥にでも入れ込んでしまえばいい。ビニールシートでも掛けてしまえばいいのに。
そこに無造作に置いておいて、見るなと言うのか。

それはまるで先生の目の届くところで日々新陳代謝を繰り返してでもいるかのように、埃を被ることなく、存在感をアピールしている。
今日はちゃんと訊いてみようと思う。
あの作品は、いったい何なのかを。

アトリエの隅の書架に置いてある小さなラジオが、ガーガーと雑音を立て始めた。
さっきまで小さく小さくニュースを流していたラジオの存在に、私は改めて気がついた。
これも気に入らない。
この外界から遮断された特別な空間に、世俗的なニュースや音楽を持ち込むラジオは不釣り合いだった。
以前はそんなもの無かったのに。ここ1ヶ月だろうか。
先生はいつも小さな音を出す、ラジオのニュースに耳を傾けている。
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