最近そう感じるようになると、書く気が失せた。
つまり、自分には愚痴と自慢しか詰まってないということだ。
自分への嘆きと、自分への励まし。
わざわざ文章にするほどでもないのに、まあ、文章を書くことは、昔からの好きな行為、嗜好であります。
考えをまとめるために、まず、整理し、からんでいる感情を取り除く。
汚れものを水で、まず、ばさばさっと大きく予洗いするかんじか。
書いて、考えをまとめているうちに、感情が落ち着く。
思考の邪魔になっていた余計な感情がなくなったあとは、ゆっくり策を練ることができる。
書くことは、よけいな泥を取り払うこと、洗うこと。
しかし、泥を拭ったあと、ニュートラルになって、さて、どうしよう?
人間は感情の動物だ。
感情が動いてこそ、行動の動機が生まれる。
(わたしの場合、勘定、打算の動物でもある)
好きだ、嫌いだ、腹立つ、情熱がわく、熱狂する、寂しい、悲しい、その他もろもろ。
その感情を守りたいために、あるいは、取り除きたいために、なにか行動を起こす。
なのに、その感情がなくなってしまうと、静かに横たわる意識のない生物になってしまう。
息をしていて、心臓が動いていて、死んでいないだけ。
感情が落ち着いて、そういう、凪のような状態になってしまっている、今、
どうしようかと作戦を練りかねている。
待ちの姿勢、受け身の体制が、わたしの基本スタンスかも知れない。
が、決して、言われるままに従うという受け身ではない。
作戦上の受け身である。
後手。
先手を打って、今まで成功したことがない。
ただし、スタンバイ、臨戦態勢をキープ。
いつでも動けるよう、トレーニングしておかなければ、命令されるだけの、ただの使用人。
しかしながら、待ち時間は長く、つらい。
天ぷらを揚げるときも、箸でつつくと良くないが、つい、やってしまう。
天ぷらにも、忍耐あるのみ。
からりと美味しく揚がることを想像して、じっとガマン。